健保連海外医療保障_No.133_2024年3月
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3健保連海外医療保障 No.133ための制度として特化し、金庫が行うべき最低限の給付範囲や拠出金の決定方法、さらには金庫の組織運営等について、具体的な規定が置かれていた。同法は、一定水準以上であると行政当局から認められた金庫のみに法人格を付与し、いわば政府公認の金庫によって疾病時の所得保障や医療保障を行わせることを意図したものであった。その後1883年に成立した労働者疾病保険法(Gesetz betreffend die Krankenversicherung der Arbeiter:以下KVGという)は、共済金庫制度をはじめとするこれまでの制度を基礎に、修正・改善を施す形で立法されたものであり、ビスマルク主導により成立した世界初の社会保険立法として知られている。ドイツにおける疾病保険制度は、このKVGによりその基礎が形成され、時代や社会の要請に応じて改革を進めながら今日に至っている。KVGにおける給付は、保険者によってその内容が異なっていたが、①発病時からの医療・薬剤・処方と②就業不能の場合、発病3日目から平均賃金日額の2分の1にあたる疾病手当(最長13週間)、または、これらに代えて③病院での無料の治療と食事の提供および被保険者の扶養家族に疾病手当の半額、が給付されることとなっており、④産婦に対しては、産後3週間これらと同じ救済を行うことも最低給付として組み込まれた14)。当時の女性の保護に関する法規定は、産後の労働禁止を規定する営業法と労働禁止期間の疾病手当を規定する共済金庫法の2つに分かれていた。1873年の営業法改正により、産後3週間の労働禁止が定められたものの、休業中の賃金保障については長らく何らの給付も設けられていなかったが、KVGにより休業中の手当の支給が初めて認められたのである。産婦に対する出産手当の支給期間は、1892年改正により4週間まで、1903年改正により6週間まで延長された。KVGは、産後休業中の所得保障としての出産手当を創設したという点で母性保護に大きな進展をもたらしたが、これはあくまで営業法および疾病保険法が適用される女性労働者に認められたものに過ぎず、両法の適用対象となっていない農業や家内労働等に従事している女性は保護を受けることはできなかった15)。1910年に行われた帝国議会における疾病保険法改正案審議では、母性保護に関する議論として、未婚の母親を給付対象者に含めるべきかが議論されたが、これについては、あくまで給付対象は既婚の被保険者本人か被保険者の妻とし、援助が必要ならば疾病保険制度ではなく救貧制度における扶助を受けるべきであるとされた16)。その結果、1911年に成立した「ライヒ保険法」(Reichsversicherungsordnung)17)では、これまで通り疾病保険の枠内で対応することとされ、出産手当の給付期間が6週間から8週間に延長された。1903年に行われた疾病保険法改正により、妊娠を原因とする労働不能である妊婦に6週間の妊婦手当(Schwangerentgeld)を支給すること、助産婦や医師による診療を受けることができることが規定されたが、ライヒ保険法では、それに加えて、妊婦手当の給付期間に出産前の出産手当給付期間を算入することや、出産後の12週間まで疾病手当の半額の乳児育成補助金(Stillgeld)を認めることができる、とされた18)。ライヒ保険法は、その後のナチス支配下においても、戦後西ドイツにおいても、幾度となく改正が行われ、質的にも量的にも充実した内容を備えるようになったが、経済成長に翳りを見せはじめた1970年代以降、医療費の急激な上昇や財政危機などを背景に、制度の見直しが相次いで行われた。最終的に、ライヒ保険法から疾病保険を分離し、それまで個別の法律によって分散していた疾病予防措置やリハビリテーション給付を加えた上で社会法典の第5編に編入され、1989年1月1日に発効し現在に至っている。以上で見たように、ドイツでは、妊産婦に対するサービスは、かなり早い段階から公的医療3. 法定疾病保険における周産期医療に対する給付

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